◆芽吹き ― 永遠のときを超えて
本を捨てた
爪を揃えた
髪を切った
日記を焼いた
遺書を書いた
ボストンバッグにありったけの日々を詰めた
雨のように頬に降る雫と一緒に君は母も入れた
父も祖父母も詰め込んで
君はぼくと電車に乗った
今日は暖かいね
……
春だものね
……
寒い日もあるかもね
……
桜もそろそろ咲くんだよね
……
学校 春休みかしら
……
海 凪の日が多くなるね
……
黙り込む君の傍らを鳩が飛ぶ
抜け落ちた羽の先ほどの重ささえもない風が
君の髪を揺らす
ちゃんと帰るから
ふいに それでも
しっかりと聞こえた君の言葉の枝先には
再創造された君自身が芽吹いていた
イエスが並んでくださったときのように
ぼくは微笑んで頷き 君と肩を並べ
病院内の礼拝堂で頭(こうべ)を垂れた
君とぼくの確信
変わらない永遠の時間(とき)を信じて

私の最愛の相方(パートナー)が、原因不明の、助からないかもしれないという病で、福岡県久留米市の聖マリア病院を受診したとき、私が書いた詩です。
まだ、ふたりともプロテスタントの信徒でした。カトリックの教会で祈ることなど考えてもいませんでしたが、私たちはたしかにイエスさまに導かれていました。
このひとがいなくなる。そんな漠とした悲しみが私の精神を支配していました。それでも、イエスさまは、生も死も関係なく、永遠のなかで私たち自身と並んで歩いて下さる。そんな啓示を二人同時に頂いていました。
ヘンリー・ヴァン・ダイクの「For Katrina's Sundial カトリーナの日時計のために」が浮かびました。
Time is
Too slow for those who Wait,
Too swift for those who Fear,
Too long for those who Grieve,
Too short for those who Rejoice,
But for those who Love,
Time is Eternity.
時間、それは
待っているひとには遅すぎて
恐れているひとにはあまりにも早くやってくる
悲しんでいるひとには長すぎて
喜んでいるひとには短かすぎる
でも、永遠を提供する時間がある
愛するひとのために
最後の二行は私の意訳です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネの福音書3章16節 新共同訳聖書
2000年経っても、いえ、永遠に変わらない神さまの愛を再確認した一日でした。
※パートナーは死に至ることなく、現在も元気に暮らしています。
◆遠い空へ
心を病み 身体を病み わたしは病院の売店前のベンチに腰掛け ひがないちにち 暇ぐらしをしている
肌着や弁当を買い求めるひとがいる 洗面器やティッシュを小脇に抱えドリンク剤を飲みながら ため息をつくひとがいる
そのうちに わたしの父よりも齢(よわい)を重ねていそうな紳士が 薔薇の花を数本買い求め 深々とお辞儀をして出て行った 彼はわたしの斜め前でふと立ち止まり しばらく花をみつめ そして ハンカチで目頭をそっと拭いた きっと彼の妻か娘でも入院しているのだろう もしかしたら不治の病かもしれない
六万年前の六月の初め シャニダールの丘にはタチアオイの花が咲き乱れ あたたかな光が 後にネアンデルタールと呼ばれるひとたちをやさしく包んでいた だが 時の河は何のためらいもなく ひとのいのちを押し流す
鳥の声が一段とさえ渡る朝 ひとりの娘のたましいは この地上を一瞬にして駆け抜けた 谷を埋め 丘を渡り 天を裂く嗚咽は 快晴の空にいつまでも赤い傷跡をとどめていた
彼女の亡骸にかけられた たくさんのタチアオイの花 花は娘の生を語り 死を聖め 生きとし生けるものの疼みを慰めようと 懸命に咲き 香りを放つ
わたしは六万年前の彼女の遺骨が たくさんの花粉に囲まれていたという美しい記事を思い出しながら あの薔薇の花を求めた紳士のことを想う 所詮 わたしの勝手な思い込みに違いない けれどひとは 時に花の立ち居や香りに神の姿を見て 与えられた刹那という名の時を確かに紡いできたのだ
六万年前に育まれたこころも そのこころを砕く別離も 今日の日のわたしの病も そしてあの紳士の涙も 花は神の目でじっと見続け 咲き続けている

この詩を書いたとき、いくつかの質問を頂きました。
キリスト教徒でも心身の病気になるのですか?
もちろんです。キリスト教徒といえどロボットではありません。生身の人間ですから。浄土宗開祖の法然上人が「浄土宗略抄」(間違っていたらすみません)の中で言っておられますね。「どんなに信仰しても、お経を唱えても、人間なのだから怪我もすれば病気もする。死にもする」と。
イエスさまも、ゲッセマネの園で仰いました。「霊は燃えていても肉は弱い」と。生身の人間はそれほどもろく弱く儚い存在である。と、まず自覚すること。それが神さまに近づく第一歩だと私は思っています。
シャニダールの人骨はネアンデルタール人のものに間違いありません。が、たくさんの花に囲まれていたことが、葬儀のありようと愛情表現を示唆する証拠である、とする説には無理があります。それに、かの人骨は男性だったと思うのですが。
はい。この人骨は確かに男性です。女性だったというのは、あくまでも私の文学としての創作です。また、人骨がたくさんの花粉に囲まれていたのは事実ですが、それはスナネズミなどの小動物によるものであって、死者を花で送る、という行為は実際にはなかった。という説も有力視されています。ただ、どちらが正しいかという結論は、いまだにでていません。
創世記1章の創造物語とネアンデルタール人の存在は矛盾していますが、どうお考えですか?
聖書の言葉を一字一句現実であり、歴史的にも事実である。と信じるひとびとには矛盾するでしょう。また、創世記を霊的な意味での人間対神のありようを表現した象徴文学、と捉えているひとたちには矛盾はしません。ネアンデルタール人もアダムとイブの子供。そう信じることも、また信仰です。
想像力を働かせて詩や小説を楽しむことは、罪なのでしょうか。そんな時代に導いてしまったのは誰なのでしょう。遠い空に思いをはせるように、もっと自由にイエスさまに問いかけましょう。そして信じましょう。神さまの愛を。神に似せて創られたのは残酷な人間の肉塊ではなく、他者を思いやるあたたかなふたつのたましいなのだと。
◆お手をどうぞ
とろけてしまいそうに柔らかく 真っ白な雪の色をして それなのに おひさまのようにあたたかい あなたのその右の手のひら
あかぎれで がさがさしたわたしの手を取って あかるい方へと歩きだす さあ こっちよ ここに石ころがあるわ あ、そっちはとんぼがお休みしてるから そっと通り過ぎましょ 大丈夫 私がついてるから きっと大丈夫 まかせておいて もうすぐ大きな道に出るからね
少女は歌うようにわたしの手を引いている その瞳に映っているものにはきっと 美も醜も 善も悪もないのだろう
お手をどうぞ 彼女はいまもそう言って ほほ笑んでいるだろうか 彼女を取り巻く大人たちは ぶっそうな時代だから その声も手も もう引っ込めて 見て見ぬふりをして 黙って急いで通り過ぎなさい そう教えていないだろうか
ひとつの街が破壊されました 劫火に焼かれています 遺体が無数に転がっています また核爆弾が使われそうです
………
変わってしまった街並みが遠くなるように お手をどうぞ そう言ってくれたあの神の声が もう世界のどこにもない 言葉は鋭い刃物に姿を変え わたしの胸に突き刺さったまま バスは走り続けている
降車ボタンを押す ゆっくりとバスが停まる 降りようとして立ち上がったとき 不意にめまいに襲われたわたしに 年若い運転手が言った
お手をどうぞ
失ったはずの現実の在りかをみつけた わたしはそんな気がして 見えなくなるまでバスの行方を見守った 変わらないで そう祈りながら

この詩は、ずっと昔に書いた「お手をどうぞ」という私の作品です。
全盲の友人宅を訪問した折、彼の小学一年生の娘さんに言われた言葉でした。「お手をどうぞ」と。
驚きました。いままでそんな言葉をかけて貰ったことなど、一度もなかったのです。
彼らは遠くの街へ引っ越して行き、携帯電話も無かった時代ですから、固定電話で頻繁にやり取りをすることもはばかられ、次第に疎遠になり、音信不通になりました。
久しぶりに乗ったバスで再び聞いた「お手をどうぞ」。胸が熱くなりました。友人家族は教会に通っていた訳ではありませんし、あの運転手さんがどんな神さまを信じていたのか、知るよしもありません。ですが、彼らの背後に、イエスさまの微笑みを確かに観たような気が致しました。
◆雪の日に
南国天草にも雪が降りました。積もるほどではないにしろ、雪は罪・汚れを覆い隠してくれるようで、とても神聖な気分になりますよね。北海道の友人に言うと「甘い!」と一喝されました。
ある宣教師がアフリカの熱帯地域の村に布教にでかけました。彼は一生懸命にイザヤ書1章18節を説明するのですが、村人たちには全く通じません。
たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ書1章18節。
彼らには「雪」が理解できなかったのです。
宣教師は困惑しました。雪に代わる「真っ白い」ものはないか・・・。何日も何ヶ月もかけて探した彼はついに発見しました。真っ白いそれを。
村人のひとりが半分に割ったココナッツの実。その切り口を観てひらめいたのです。「これだ!」と。それ以来、宣教師は「たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、ココナッツの中の、あの色のように白くなる」と話し続けたそうです。
ネット社会になって、ひとは、伝えなければならないことを言わなくなり(書かなくなり)、言わなくてもいいことを言って(書いて)しまうようになりました。そのせいで、大切な友人を失った。大事な取引先から縁を切られてしまった。そんな経験をしたことはないでしょうか。
どうすれば私たちの思いが、願いが相手に伝わるのでしょうか。あの宣教師のように、私たちも何日も、場合によったら何ヶ月も悩んで探して、祈って、最上の言葉を見いださなければなりません。たかがココナッツ、されどココナッツです。
そうして相手と対峙し、信頼関係を構築していくのです。それが私たちキリスト者の務めなのですから。
と、偉そうなことを書いている私ですが、私はいまでも後悔していることがあります。大切な友人(ひとりは他界し、ひとりは行方不明です)に対して、あのとき「あんなことを言わなければよかった」。また、「本当の思いを正直に、素直になって伝えれば良かった」と。
イエスさま。浅はかな私を助けて下さい!
祈りに呼応するように、天からの雪は降り続いています。
◆Q&A余談
「はじめての方へ」のページにQ&Aを掲載しておりますが、このページに載せていない内容で、たまに質問される項目があります。
ばかばかしかったり(すみません)、可笑しかったり、そんなん聞くんかい! というものまでありますので、少しばかりご紹介いたします。
Q.天草は長崎県ですよね。
学生時代、恩師の教授に言われたときはひっくり返りましたけど、ある手術のために入院した大学病院の同部屋のひとたちにも言われました。
「天草は熊本県なんだ。へぇえ~! 熊本は熊が出るから熊本なんだろ? そんな県より、お洒落な長崎県に入った方が絶対にいいと思うぞ」。
天草って、そんなに知名度低いですか? それに、熊本には(九州には)熊はいませんから。動物園以外には。
Q.クリスマスに生まれたイエス・キリストって、運がいいひとですよね。
い、いゃあ・・・(^^ゞ クリスマスにイエスさまがお生まれになったのではなく、イエスさまのお誕生日をお祝いするのがクリスマスなんです。
聖書にはイエスさまの正確な誕生日は書かれていません。そこで、古代ローマで祝われていたミトラ教の「光の祭り」と、農耕儀式「サートゥルナーリア祭」を一緒くたにして(どちらか一方かも知れませんが)キリスト教のお祝い日、クリスマスに転用したのが始まりとされています。
ミトラ教とサートゥルナーリア祭の説明については、字数の制約で省きます。
Q.宗教と信仰の違いはなんですか?
宗教は、信仰を体系化した組織や集団を指します。特定の神仏を礼拝し、そのための教義が存在し、指導者や教祖が一定の組織を束ねています。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教などがあげられます。
信仰とは、特定の宗教団体に所属し(しない場合もあります)、神仏を拝し、教義や律法を遵守する生活行為を指します。あくまでも、個々人の意思です。これが洗脳によるものであれば、その宗教団体はカルトと呼ばれることになります。なお、異端とカルトは違いますので混同しないようにしてくださいね。
Q.マルコによる福音書9章2~8節には(マタイやルカにも記述がありますが)、イエスさまの変容が書かれています。モーセとエリヤが現れますが、ペテロたちはどうしてこの二人がモーセとエリヤだと分かったのですか? 名札を下げていたとか、自己紹介をしたとか書かれていませんが。
質問が、なぜ二人の名前が分かったのか、です。いままでこんな質問を受けたことがありませんでしたので、不謹慎ながら笑ってしまいました。確かに不思議ですよね。当時はYouTubeもFacebookもインスタもX(ツイッター)もありませんしね(笑)。
真面目にお応えしますが、この箇所で注目すべきなのは、モーセは律法の創始者、エリヤは預言者の代表です。彼らを差し置いて、雲の中から「これはわたしの愛する子、彼に聞け」と、天の父の声が聞こえてきます。つまり、律法よりも、過去の預言や預言者よりも、なにをさしおいても神の子イエスの言葉が、つまり福音の方が大切だよ、と言っているわけです。
イエスさまの十字架の死と復活による罪の贖い、そして救い。それは絶対に譲れない聖書の箇所です。が、誰もが「なんで?」と首をかしげる部分については、これが正しい解釈だ、いや、こちらが絶対に正解だ。といった無益な議論はしないことが肝要です。
虚心坦懐に、まずは「イエスさま、なにもわからない私をお導き下さい」。私はいつもそう祈ってから聖書を読むようにしています。それこそが神さまと交わす「Q&A」だと思うのですが、どうでしょうね。