◆朝
天に隙間なくかがり火が焚かれるとき
夜は頭を垂れ しずかに闇の幕を引く
地はにぎやかに上気してくる光で充ち満ち
また新たな創造が始まろうとしている
飛び立とうとする飛行機
港を出ようとする船
ホームを離れようとする列車
駐車場を滑り出る車
みな朝が似つかわしいのはなぜ
床をあげ 膝を折り
腰を伸ばし
天に向け 両手を差し上げ
昨日の落日などとうに忘れて
上でも下でもない 一歩前へと歩きだす
それがひとに与えられた
さいわい 朝という名の希望
そして恵み
わたしの口はいう
イエスさま ありがとうございます と

我が家の愛犬が、動物病院の主治医に複雑骨折の完治を告げられたその日に、同じ前足を再骨折しました。
「教会に熱心に通っても、なんの意味もないってことだね。犬が可哀想だ」。
無神論者の親戚に言われました。
ほとんどの日本人にとって、宗教を信じること=現世御利益を得ることなのでしょう。
「家内安全、商売繁盛。病気や怪我の平癒。幸せの具現化を願ってなにが悪い」と、そのひとは言うのです。
悪くはありません。私たちキリスト教徒もみな、「家内安全、商売繁盛。病気や怪我の平癒」を願っています。
でも、私たちが教会に通ってミサに与り、御利益を得る。それは、結果論でしか判断されない、順番としては、ずっと後回しにしてもかまわない項目だと思っています。そうでなくても、御利益を得ることは決して1番目の目的ではありません。
私たちは、この罪に汚れた私たちを贖い救うために十字架にまで架かられたイエスさまに感謝し、イエスさまを礼拝するために、教会に集まり、ミサに与るのです。
人間も犬も、さまざまな苦しみを抱えて生きています。そんな人生の中で、私たち人間だけに与えられた事実は、「朝が来る」という確信、希望をいただく信仰を持つことができる、その恵みによっています。
「朝が必ず来るなんて、本当に信じてるの? おめでたいひとだな。聖書読んだことないの? ルカによる福音書 12章19節から20節」 と、また誰かが吐き捨てました。
たしかにこう書いてありますね。
こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」、と。しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた」(新共同訳聖書)
うぅ~ん、聖書の言葉を読み間違えると哀しいですねぇ。信仰者のための御言葉は、たとえば以下の箇所でしょう。
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
あなたの真実はそれほど深い。
哀歌3章22節・23節(新共同訳聖書)
再骨折した我が家の愛犬以上にショッキングなことを、私は言われたことがあります。俗に言う「余命宣告?」です。
でも、私は冒頭の詩を書きました。哀歌3章の御言葉を信じて。
◆神に出会うとき
傲慢不遜で他人を見下し、それでいて死ぬことばかりを考えていた私は、ある日のミサに出席し、はじめから終わりまでポロポロと涙を流していたことがありました。とても不思議な感覚でした。
イエス・キリストに出会った、と確信を持って言えるわけではありませんが、何度か同じような経験をして、私は、「こんな私でも赦されている。生きていていいのかもしれない」と思うようになりました。多少なりとも「ましな人間」になれたような気がしますし、ほんの少しだけ、自分にも、他人にも優しくなれたかも知れないと思うのです。
もちろん、それ以降の日々も「汚れた自我との闘い」に違いはありませんが。
フランスの哲学者で思想家のシモーヌ・ヴェイユも似たような体験を語っています。
サンタ・マリア・デリ・アンジェリの12世紀ロマネスク風の小礼拝堂にヴェイユは佇んでいました。そこは、聖フランシスコがしばしば祈りを捧げたところでした。
このとき、目に見えない誰かが、何かが、彼女の頭を押さえつけて脆かせました。 ひとが頭を垂れるときは、どうあがいても己の力の及ばない存在を知ったときです。それが人間以外の存在であればなおさら、ひとは悔い砕かれたたましいを以て謙虚にならざるをえないでしょう。心からの謙遜は、ひとに創造的な孤独をもたらします。そして、ひとに希望を待ち望む忍耐と注意力を身につけさせてくれます。
こうしてヴェイユは、「神はこのような人間にさえもご自身を拒否したもうことはない」という、霊とたましいのひとに変えられていくことになりました。
主よ、あなたのために、主の家族のために、見知らぬ誰かのために、私自身のために、与えられた日々と時間を謙虚に、そして希望を持って、もう少しだけ生かしてください。 ヴェイユのように。そう祈る日々を、私はいま過ごしています。
◆芽吹き ― 永遠のときを超えて
本を捨てた
爪を揃えた
髪を切った
日記を焼いた
遺書を書いた
ボストンバッグにありったけの日々を詰めた
雨のように頬に降る雫と一緒に君は母も入れた
父も祖父母も詰め込んで
君はぼくと電車に乗った
今日は暖かいね
……
春だものね
……
寒い日もあるかもね
……
桜もそろそろ咲くんだよね
……
学校 春休みかしら
……
海 凪の日が多くなるね
……
黙り込む君の傍らを鳩が飛ぶ
抜け落ちた羽の先ほどの重ささえもない風が
君の髪を揺らす
ちゃんと帰るから
ふいに それでも
しっかりと聞こえた君の言葉の枝先には
再創造された君自身が芽吹いていた
イエスが並んでくださったときのように
ぼくは微笑んで頷き 君と肩を並べ
病院内の礼拝堂で頭(こうべ)を垂れた
君とぼくの確信
変わらない永遠の時間(とき)を信じて

私の最愛の相方(パートナー)が、原因不明の、助からないかもしれないという病で、福岡県久留米市の聖マリア病院を受診したとき、私が書いた詩です。
まだ、ふたりともプロテスタントの信徒でした。カトリックの教会で祈ることなど考えてもいませんでしたが、私たちはたしかにイエスさまに導かれていました。
このひとがいなくなる。そんな漠とした悲しみが私の精神を支配していました。それでも、イエスさまは、生も死も関係なく、永遠のなかで私たち自身と並んで歩いて下さる。そんな啓示を二人同時に頂いていました。
ヘンリー・ヴァン・ダイクの「For Katrina's Sundial カトリーナの日時計のために」が浮かびました。
Time is
Too slow for those who Wait,
Too swift for those who Fear,
Too long for those who Grieve,
Too short for those who Rejoice,
But for those who Love,
Time is Eternity.
時間、それは
待っているひとには遅すぎて
恐れているひとにはあまりにも早くやってくる
悲しんでいるひとには長すぎて
喜んでいるひとには短かすぎる
でも、永遠を提供する時間がある
愛するひとのために
最後の二行は私の意訳です。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネの福音書3章16節 新共同訳聖書
2000年経っても、いえ、永遠に変わらない神さまの愛を再確認した一日でした。
※パートナーは死に至ることなく、現在も元気に暮らしています。
◆遠い空へ
心を病み 身体を病み わたしは病院の売店前のベンチに腰掛け ひがないちにち 暇ぐらしをしている
肌着や弁当を買い求めるひとがいる 洗面器やティッシュを小脇に抱えドリンク剤を飲みながら ため息をつくひとがいる
そのうちに わたしの父よりも齢(よわい)を重ねていそうな紳士が 薔薇の花を数本買い求め 深々とお辞儀をして出て行った 彼はわたしの斜め前でふと立ち止まり しばらく花をみつめ そして ハンカチで目頭をそっと拭いた きっと彼の妻か娘でも入院しているのだろう もしかしたら不治の病かもしれない
六万年前の六月の初め シャニダールの丘にはタチアオイの花が咲き乱れ あたたかな光が 後にネアンデルタールと呼ばれるひとたちをやさしく包んでいた だが 時の河は何のためらいもなく ひとのいのちを押し流す
鳥の声が一段とさえ渡る朝 ひとりの娘のたましいは この地上を一瞬にして駆け抜けた 谷を埋め 丘を渡り 天を裂く嗚咽は 快晴の空にいつまでも赤い傷跡をとどめていた
彼女の亡骸にかけられた たくさんのタチアオイの花 花は娘の生を語り 死を聖め 生きとし生けるものの疼みを慰めようと 懸命に咲き 香りを放つ
わたしは六万年前の彼女の遺骨が たくさんの花粉に囲まれていたという美しい記事を思い出しながら あの薔薇の花を求めた紳士のことを想う 所詮 わたしの勝手な思い込みに違いない けれどひとは 時に花の立ち居や香りに神の姿を見て 与えられた刹那という名の時を確かに紡いできたのだ
六万年前に育まれたこころも そのこころを砕く別離も 今日の日のわたしの病も そしてあの紳士の涙も 花は神の目でじっと見続け 咲き続けている

この詩を書いたとき、いくつかの質問を頂きました。
キリスト教徒でも心身の病気になるのですか?
もちろんです。キリスト教徒といえどロボットではありません。生身の人間ですから。浄土宗開祖の法然上人が「浄土宗略抄」(間違っていたらすみません)の中で言っておられますね。「どんなに信仰しても、お経を唱えても、人間なのだから怪我もすれば病気もする。死にもする」と。
イエスさまも、ゲッセマネの園で仰いました。「霊は燃えていても肉は弱い」と。生身の人間はそれほどもろく弱く儚い存在である。と、まず自覚すること。それが神さまに近づく第一歩だと私は思っています。
シャニダールの人骨はネアンデルタール人のものに間違いありません。が、たくさんの花に囲まれていたことが、葬儀のありようと愛情表現を示唆する証拠である、とする説には無理があります。それに、かの人骨は男性だったと思うのですが。
はい。この人骨は確かに男性です。女性だったというのは、あくまでも私の文学としての創作です。また、人骨がたくさんの花粉に囲まれていたのは事実ですが、それはスナネズミなどの小動物によるものであって、死者を花で送る、という行為は実際にはなかった。という説も有力視されています。ただ、どちらが正しいかという結論は、いまだにでていません。
創世記1章の創造物語とネアンデルタール人の存在は矛盾していますが、どうお考えですか?
聖書の言葉を一字一句現実であり、歴史的にも事実である。と信じるひとびとには矛盾するでしょう。また、創世記を霊的な意味での人間対神のありようを表現した象徴文学、と捉えているひとたちには矛盾はしません。ネアンデルタール人もアダムとイブの子供。そう信じることも、また信仰です。
想像力を働かせて詩や小説を楽しむことは、罪なのでしょうか。そんな時代に導いてしまったのは誰なのでしょう。遠い空に思いをはせるように、もっと自由にイエスさまに問いかけましょう。そして信じましょう。神さまの愛を。神に似せて創られたのは残酷な人間の肉塊ではなく、他者を思いやるあたたかなふたつのたましいなのだと。
◆お手をどうぞ
とろけてしまいそうに柔らかく 真っ白な雪の色をして それなのに おひさまのようにあたたかい あなたのその右の手のひら
あかぎれで がさがさしたわたしの手を取って あかるい方へと歩きだす さあ こっちよ ここに石ころがあるわ あ、そっちはとんぼがお休みしてるから そっと通り過ぎましょ 大丈夫 私がついてるから きっと大丈夫 まかせておいて もうすぐ大きな道に出るからね
少女は歌うようにわたしの手を引いている その瞳に映っているものにはきっと 美も醜も 善も悪もないのだろう
お手をどうぞ 彼女はいまもそう言って ほほ笑んでいるだろうか 彼女を取り巻く大人たちは ぶっそうな時代だから その声も手も もう引っ込めて 見て見ぬふりをして 黙って急いで通り過ぎなさい そう教えていないだろうか
ひとつの街が破壊されました 劫火に焼かれています 遺体が無数に転がっています また核爆弾が使われそうです
………
変わってしまった街並みが遠くなるように お手をどうぞ そう言ってくれたあの神の声が もう世界のどこにもない 言葉は鋭い刃物に姿を変え わたしの胸に突き刺さったまま バスは走り続けている
降車ボタンを押す ゆっくりとバスが停まる 降りようとして立ち上がったとき 不意にめまいに襲われたわたしに 年若い運転手が言った
お手をどうぞ
失ったはずの現実の在りかをみつけた わたしはそんな気がして 見えなくなるまでバスの行方を見守った 変わらないで そう祈りながら

この詩は、ずっと昔に書いた「お手をどうぞ」という私の作品です。
全盲の友人宅を訪問した折、彼の小学一年生の娘さんに言われた言葉でした。「お手をどうぞ」と。
驚きました。いままでそんな言葉をかけて貰ったことなど、一度もなかったのです。
彼らは遠くの街へ引っ越して行き、携帯電話も無かった時代ですから、固定電話で頻繁にやり取りをすることもはばかられ、次第に疎遠になり、音信不通になりました。
久しぶりに乗ったバスで再び聞いた「お手をどうぞ」。胸が熱くなりました。友人家族は教会に通っていた訳ではありませんし、あの運転手さんがどんな神さまを信じていたのか、知るよしもありません。ですが、彼らの背後に、イエスさまの微笑みを確かに観たような気が致しました。
◆雪の日に
南国天草にも雪が降りました。積もるほどではないにしろ、雪は罪・汚れを覆い隠してくれるようで、とても神聖な気分になりますよね。北海道の友人に言うと「甘い!」と一喝されました。
ある宣教師がアフリカの熱帯地域の村に布教にでかけました。彼は一生懸命にイザヤ書1章18節を説明するのですが、村人たちには全く通じません。
たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。
たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。イザヤ書1章18節。
彼らには「雪」が理解できなかったのです。
宣教師は困惑しました。雪に代わる「真っ白い」ものはないか・・・。何日も何ヶ月もかけて探した彼はついに発見しました。真っ白いそれを。
村人のひとりが半分に割ったココナッツの実。その切り口を観てひらめいたのです。「これだ!」と。それ以来、宣教師は「たとえ、あなたの罪が緋のように赤くても、ココナッツの中の、あの色のように白くなる」と話し続けたそうです。
ネット社会になって、ひとは、伝えなければならないことを言わなくなり(書かなくなり)、言わなくてもいいことを言って(書いて)しまうようになりました。そのせいで、大切な友人を失った。大事な取引先から縁を切られてしまった。そんな経験をしたことはないでしょうか。
どうすれば私たちの思いが、願いが相手に伝わるのでしょうか。あの宣教師のように、私たちも何日も、場合によったら何ヶ月も悩んで探して、祈って、最上の言葉を見いださなければなりません。たかがココナッツ、されどココナッツです。
そうして相手と対峙し、信頼関係を構築していくのです。それが私たちキリスト者の務めなのですから。
と、偉そうなことを書いている私ですが、私はいまでも後悔していることがあります。大切な友人(ひとりは他界し、ひとりは行方不明です)に対して、あのとき「あんなことを言わなければよかった」。また、「本当の思いを正直に、素直になって伝えれば良かった」と。
イエスさま。浅はかな私を助けて下さい!
祈りに呼応するように、天からの雪は降り続いています。
◆Q&A余談
「はじめての方へ」のページにQ&Aを掲載しておりますが、このページに載せていない内容で、たまに質問される項目があります。
ばかばかしかったり(すみません)、可笑しかったり、そんなん聞くんかい! というものまでありますので、少しばかりご紹介いたします。
Q.天草は長崎県ですよね。
学生時代、恩師の教授に言われたときはひっくり返りましたけど、ある手術のために入院した大学病院の同部屋のひとたちにも言われました。
「天草は熊本県なんだ。へぇえ~! 熊本は熊が出るから熊本なんだろ? そんな県より、お洒落な長崎県に入った方が絶対にいいと思うぞ」。
天草って、そんなに知名度低いですか? それに、熊本には(九州には)熊はいませんから。動物園以外には。
Q.クリスマスに生まれたイエス・キリストって、運がいいひとですよね。
い、いゃあ・・・(^^ゞ クリスマスにイエスさまがお生まれになったのではなく、イエスさまのお誕生日をお祝いするのがクリスマスなんです。
聖書にはイエスさまの正確な誕生日は書かれていません。そこで、古代ローマで祝われていたミトラ教の「光の祭り」と、農耕儀式「サートゥルナーリア祭」を一緒くたにして(どちらか一方かも知れませんが)キリスト教のお祝い日、クリスマスに転用したのが始まりとされています。
ミトラ教とサートゥルナーリア祭の説明については、字数の制約で省きます。
Q.宗教と信仰の違いはなんですか?
宗教は、信仰を体系化した組織や集団を指します。特定の神仏を礼拝し、そのための教義が存在し、指導者や教祖が一定の組織を束ねています。キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・仏教などがあげられます。
信仰とは、特定の宗教団体に所属し(しない場合もあります)、神仏を拝し、教義や律法を遵守する生活行為を指します。あくまでも、個々人の意思です。これが洗脳によるものであれば、その宗教団体はカルトと呼ばれることになります。なお、異端とカルトは違いますので混同しないようにしてくださいね。
Q.マルコによる福音書9章2~8節には(マタイやルカにも記述がありますが)、イエスさまの変容が書かれています。モーセとエリヤが現れますが、ペテロたちはどうしてこの二人がモーセとエリヤだと分かったのですか? 名札を下げていたとか、自己紹介をしたとか書かれていませんが。
質問が、なぜ二人の名前が分かったのか、です。いままでこんな質問を受けたことがありませんでしたので、不謹慎ながら笑ってしまいました。確かに不思議ですよね。当時はYouTubeもFacebookもインスタもX(ツイッター)もありませんしね(笑)。
真面目にお応えしますが、この箇所で注目すべきなのは、モーセは律法の創始者、エリヤは預言者の代表です。彼らを差し置いて、雲の中から「これはわたしの愛する子、彼に聞け」と、天の父の声が聞こえてきます。つまり、律法よりも、過去の預言や預言者よりも、なにをさしおいても神の子イエスの言葉が、つまり福音の方が大切だよ、と言っているわけです。
イエスさまの十字架の死と復活による罪の贖い、そして救い。それは絶対に譲れない聖書の箇所です。が、誰もが「なんで?」と首をかしげる部分については、これが正しい解釈だ、いや、こちらが絶対に正解だ。といった無益な議論はしないことが肝要です。
虚心坦懐に、まずは「イエスさま、なにもわからない私をお導き下さい」。私はいつもそう祈ってから聖書を読むようにしています。それこそが神さまと交わす「Q&A」だと思うのですが、どうでしょうね。
◆母と子の苦悩
東京墨田区の社会福祉法人が、25年の3月31日から「赤ちゃんポスト」(正式名称ベビーバスケット)の運用を開始した、とのニュースが流れました。
私はつい、「またか」とため息をついてしまいました。 またか、とはこの「俗称」についてです。熊本市の慈恵病院が最初に取り組みを始めたとき、賛否両論含めてたいへんな騒動になりました。その原因のひとつになったのが「赤ちゃんポスト」という呼称でした。
「赤ちゃんポスト」の由来は、ドイツ語の「ポストの蓋」、日本各地に存在していた「不要犬ポスト」からの連想ではないか、などと言われています(Wikipedia)。が、定かではありません。
NHK以外の熊本県内民放メディアは「赤ちゃんポスト」を使いませんでした。正式な「こうのとりのゆりかご」という名前があったからです。私はNHK本局とNHK熊本放送局に「赤ちゃんポストではその目的も意義も伝わりません。なにより、多くの人に誤解を与えてしまいます。ですから、正式名称を使って下さい」とお願いしました。しかし、どちらの返事も「『赤ちゃんポスト』の方が認知されているから変更予定はありません」でした。
「認知させたのはあなた方NHKが連呼し続けたからです。NHKが正式名称を使えば、それが世間の認識になります」と食い下がっても「そのつもりはありません」と譲りません。NHKはなぜそこまで頑なに拒否したのでしょうか。考えられる理由はいくつかありますが、あくまでも憶測になりますのでここには書きません。
イザヤ書49章15節から16節の「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない」(新共同訳聖書)という御言葉を思い浮かべたひとも多いかもしれません。
この御言葉が書かれた当時も、母親が我が子を捨てたり殺したりネグレクトしたりすることがあったのでしょう。子供たちは奴隷として売買の対象になっていたかもしれません。 いつの時代も、女性はたいへんです。「こうのとりのゆりかご」や「ベビーバスケット」に預ける母親にも文字通り身を切るほどの苦しみがあったはずです。「我が子を捨てるとはけしからん!」。そんな批判ではなにも解決できません。
また、「預けられる女性たちはまだまし。虐待して殺してしまう母親たちに比べれば」。このような批判も正しいとは言えないでしょう。他人は彼女たちの苦悩や病を知らないのです。
綺麗事だと言われても、理想論だとあしらわれても、それでも、母と子の苦しみを神さまが癒やしてくださり、子供たちが「愛されるために生まれた」と思えるような社会になっていくように、どうか祈って下さい。私も祈っています。
◆結婚式
ある日、母と叔母はとある婚礼に招かれたのでありました。
ふたりは披露宴が佳境にさしかかった頃、化粧室に行くために連れ立って席を離れました。しばらくして戻ってみると、宴はさらに盛り上がっており、ほとんどの人が席を離れ、新郎新婦や旧知の人たちと入り乱れて大騒ぎをしています。
そんな光景を横目で見ながら、ご祝儀分は取り戻そうと、母と叔母は目の前の料理をたらふくおなかの中に収めて行くのでありました。
しばらくして、後ろから肩をたたくふたりのひと。 「あのぉ・・・そこは私たちの席なんですけどぉ・・・」 「えっ! えぇ~っ!、席、間違えたんだ。すみません。ごめんなさい」と席次表を確認する二人。そして新郎新婦と来賓たちの顔ぶれを見て・・・。
だ、誰ひとり知らない。なんで? 母と叔母は隣の、全く別の披露宴会場に紛れ込んで、他人の料理を、それもおなかいっぱいに食べていたのでありました。
ドジなんだからねぇ(笑)。バカだねぇ(爆笑)。と私はふたりのことを散々からかい、そして笑ったのでありました。
ほどなくして、とある知己から私にも披露宴の招待状が届きました。
当日、電車が遅れて、私が着いたときには招待客たちはすでに会場の中に入っておりました。 慌てて記帳し、席次表を貰い、会場に入りました。ところが、私の席には知らない人がすでに座っているのです。
「あのぉ・・・そこ、私の席なんですけどぉ・・・」
「はぁ? ここは私の席ですよ!」
「いや、だけど・・・」
周囲が静かになって、スタッフが数人飛んできて、私の席次表を確認し・・・「お客様の会場はふたつ隣になります」
「失礼しましたぁ!」 猛ダッシュで会場から脱出する私。会場は爆笑と拍手。 母と叔母を笑った報いか? うぅぅ、恥ずかしいよぉ。
自分の会場にたどり着き、席を見つけ、やっと座って一息ついて、周囲の同僚たちに事の子細を話すと「おまえはドジだからなぁ」と、また笑われました。
あの頃は、披露宴も盛大にやっていたんですねぇ。何事も質素に済ましてしまう現在とは隔世の感がありますよ。
聖書にも結婚式の話しが出てきます。
カナの婚礼は有名ですが、私が興味深い話しだな、と思うのは、マタイによる福音書22章1節~14節のたとえ話しです。
王様が王子のために婚礼の祝宴を催すのですが、招待したひとたちがああだこうだと理由をつけてことごとく欠席してしまいます。それどころか、案内に行った王様の使いたちを捕まえて暴行し、果ては殺してしまうという暴挙に出てしまいます。
怒った王様は軍隊を出動させ、無礼な振る舞いをした輩たちを一掃してしまうのです。
婚礼会場に空きができたために、王様はだれもかれも、通りを歩いているひとたちさえも、善人も悪人も全て宴に招き入れました。ところが、その中にひとりだけ礼服を着ていないひとが混じっていたのです。
王様は彼を見とがめ、会場の外に放り出してしまいました。
礼服は王様側から招待客に支給されるのが慣例で、招待されたひとたちはその服に着替えて宴に出席するのがしきたり、それが当時の文化でした。その服を拒否し、彼は汚れた服のまま強引に婚礼の席に着こうとした。それは単に礼儀知らずでは済まされない、重大な背信行為だったのです。
洗礼を受け、教会に通っている私は、少なくとも招待を拒否して一掃されたグループには入っていない。でも、果たして、礼服を着ないで婚礼会場に入り、王様の不興を買ってしまったあのひとではない、と言い切れるのでしょうか・・・
婚礼の会場は天の御国であり、王子はイエスさま、王様は天の父なる神さまの比喩。それは誰もが理解しています。ならば、この礼服って、何を意味するのでしょうね。
多分ですけど、それはきっと、神さまを敬い、へりくだって、救いに導いて下さったことをこころから感謝する素直なこころのこと、かもしれませんね。
私たちは天の御国に招かれた招待客、これはもう、ほんとに奇跡としか言い様がありません。罪に汚れたこんな私でさえ招かれたのですから、うだうだ言ってないで与えられた義の衣を喜んで頂戴致しましょう。そして、笑顔で礼服を羽織り、楽しんで祝宴に与りましょう。 でも、私の母や私のように、くれぐれも別の会場に迷い込まないように気をつけて下さいね。