崎津教会


カトリック崎津教会

〒863-1204 熊本県天草市河浦町崎津539電話 0969-79-0015

 

主日ミサ 
毎週 日曜日 午前7時30分から

◆平日ミサ 

ミサの時間と曜日は井手神父さまのスケジュールの都合で、変更になることが多々あります。
ミサ予定のお知らせを毎回確認してください。

◆今後のミサ予定

○10月08日水曜日 午後2時40分から シンガポール巡礼団ミサ
○10月12日日曜日 朝7時30分から 年間第28主日ミサ○10月12日日曜日 朝7時30分から 年間第28主日ミサ

◆委員会予定

○10月03日金曜日 夕方6時30分から


◆入門講座予定



 

2025年10月

神は地の果てまで見渡し
天の下、すべてのものを見ておられる。

風を測って送り出し
水を量って与え

雨にはその降る時を定め
稲妻にはその道を備えられる。

神は知恵を見、それを計り
それを確かめ、吟味し

そして、人間に言われた。
「主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別」

ヨブ記28章24節から28節 新共同訳聖書


2025年9月

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

ヨハネの福音書15章5節 新共同訳聖書


2025年8月

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。

民数記6章24節から26節 新共同訳聖書

2025年7月

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

コリントの信徒への手紙第1 13章4節から7節 新共同訳聖書

2025年6月

すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。

使徒言行録2章38~39節 新共同訳聖書


2025年5月

神に与えられた短い人生の時に飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福でよいことだ。それが人の受けるべき分だ。
コヘレトの言葉5章17節 新共同訳聖書

※新共同訳聖書では「コヘレトの言葉」、口語訳では「伝道の書」、新改訳では「伝道者の書」と表記されています。

2025年4月

主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。 あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。 今も、そしてとこしえに。  

詩編121編7~8節 新共同訳聖書

※文語訳聖書・口語訳聖書・新改訳聖書は「詩篇」と表記し、 新共同訳聖書・聖書協会共同訳聖書では「詩編」と表記しています。

2025年3月

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。

自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

ローマ人への手紙12章9節~17節 新共同訳聖書

 


 

崎津教会のカメラマン、出崎信行さんの作品をご紹介しています。

 【コスモスと崎津教会】

         

【霧と海と崎津教会】

 


 

2025年9月27日土曜日

熊本地区教会合同巡礼ミサ(大江教会)

熊本地区宣教司牧評議会主催の巡礼ミサが、大江教会で捧げられました。

 


熊本地区所属の15教会から満遍なく信徒さんたちが集い、アベイヤ司教さまの司式のもと、司祭団と信徒200余名が揃いました。これだけの信仰者たちが一堂に会して私たちの主イエス・キリストを賛美するというのは実に荘厳であり、たましいが揺さぶられるような感動に満たされました。

天の御国ではきっと、時間の制限なく、こんな賛美がずっと続いているのだろうな、と想像すると、なんとも夢心地になり、幸せホルモンが溢れてきました。

 

ミサのひとときは、現実世界の労苦を忘れ、空洞の、乾ききった肉体に、そして霊とたましいにしっかりとちからをいただける時間です。少なくとも私はそうですし、会堂に集われた全ての信徒さんが同じ思いでありますようにと祈りました。

今年は通常聖年にあたりますので、特別な免償を受けるために、たくさんの信徒さんたちが罪の告白とゆるしの秘蹟をうけました。

アベイヤ司教さまの説教は、「希望は欺かない」という内容でした。

 

その基本は、くしくも殉教者アダム荒川の言葉でした。

朽ち果てるものではなく、また、寿命が尽きるとだれも等しく死んでいく人間にでもなく、ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く。

そうですね。マタイの福音書24章35節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。と書いてあります。マルコ13章31節にも同じ事が書いてありますし、イザヤ書40章8節には「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。

言葉は神であり、神はイエス・キリストです。ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く巡礼者。それが私たちである。

アダム荒川のように、強く雄々しくあれ。

アベイヤ司教さまはそんな内容で説教を締めくくって下さいました。

またいつか、どこかの教会に集い、旧交をあたためあい、そしてともに主イエス・キリストを賛美する機会を与えて下さるように、信徒皆さんが祈り願った一日でした。

 

2025年6月15日日曜日

アダム荒川殉教記念ミサ(天草大江教会)

世界中のどこかで、おそらく絶え間ないミサと祈りが、殉教者のために神さまの前に捧げられていることでしょう。でも、ときどき思うのです。そのことに果たして意味があるのか、と。

殉教者たちを偲び、追悼ミサを捧げ、祈りの時間を特別に設ける。その行為を否定しているわけではありません。

何十回、何百回と繰り返されてきた祈りとミサが、多少なりとも神さまに届いているのなら、なぜ、20世紀・21世紀がいちばん殉教者を出している、と、言われているのでしょうか。

ロシアとウクライナの戦争は一向に止む気配はなく、イスラエルは傍若無人に他国にミサイルを撃ち込んでいます。最近だけでも、どれだけ多くの信仰者たちがこの戦争で命を落としたことでしょう。

あまりにも不条理です。

だから神はいない!

の、でしょうか? そうではない、と信じています。

私たちが神さまを信仰するのは、どんなに理不尽な日々が続き、この世界は不条理の、漆黒の闇以外の何物でもない。と呻くときでさえ、信仰者たちは、私たちは現状に失望することなく、むしろ希望として、光として全てを神さまに委ねて信じることができるのですから、これほど幸いなことはありません。

あなたは嘘偽りなくそう断言できるのですか? と、問う声があります。

議論の余地はありません。そう告白することこそが「信仰」なのですから。

 

アダム荒川は、裸にされて横木に縛られ引き回され、三月のまだ寒い時期に朝から晩まで潮風の吹きすさぶ中に吊るされ捨て置かれました。九日間も。

そして、六十日に及ぶ幽閉。しかし、その間も彼は祈り、黙想し、苦難の時を感謝と賛美の日々へと変えていきます。彼の信仰を観て、聴いて、たくさんの人々が感動し、信仰をますます堅くした、と伝えられています。

どんな責め苦にも屈しないアダム荒川でしたが、1614年6月5日早朝、ついに斬首され、その遺体は重い岩にくくりつけられ湾外の海中深くに沈められました。

2025年の今日、私たちはアダム荒川が残した言葉に、覚悟のない私たちの日常を省み、そして誓うのです。「彼の言葉のとおりに私たちも生かして下さい」と。

彼はこう言い遺しました。

「わたしの希望は、石や土でできた教会にあるのではなく、また、時の移り変わりを免れ得ない司祭や、この空の下の何ものでもありません。ただ、神にのみ希望をかけているのです」と。

アダム荒川の、歴史の中のたくさんの殉教者たちの、そして、いまこの時代に死にゆく信仰者たちのたましいに、主の、イエス・キリストの慰めと祝福が溢れんことを祈り願って、今年も殉教記念ミサが幕を閉じました。

 

 

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