教会の動き


2025年4月17日

聖木曜日のミサ

今年は復活祭が4月20日ですので、その前の木曜日が「聖木曜日のミサ」になります。

レオナルド・ダ・ヴィンチの有名な傑作「最後の晩餐」をご存知の方も多いでしょう。あの絵は、イエスさまが十字架にお架かりになる前に弟子たちと食事をなさったエピソードを描いたものですが、
カトリック教会でも主との最後の晩餐をお祝いするために、夕刻にミサをお捧げします。


 

聖体拝領が終わってから、ご聖体は仮安置所に移されます。

ゲッセマネで捕らえられたイエスさまが十字架にお架かりになり、ご復活されるまで、つまりイエスさまがご不在の間は聖櫃の中も空けておくという意味がある、と言われています。

明日はいよいよ聖金曜日です。

 

2025年3月23日日曜日

深堀純先生をお迎えして黙想会が開かれました。

主題は「ミサの意義と意味」。私たちは何気ない習慣としてミサに与っていることが多々ありますが、そんな私たちに、もう一度ミサの意義と意味を考え、理解しなさいとの教えを頂きました。

ミサとは、生きた主イエス・キリストと出会う場所であり時間である。父・御子・聖霊の名による救いと贖い、その瞬間に毎週立ち会うことのできる私たちはなんと幸せで恵まれた存在でしょうか。と。

言語明瞭、意味鮮明。ときにユーモアを交えながらのお話し。みながひとつになってミサに与ることが大切なんですよ、とのお言葉。時を忘れる黙想会になりました。深堀先生、素敵なお話しと貴重な時間を私たちに与えて下さり、ありがとうございました。

 

 

 

2025年3月5日水曜日

今日は灰の水曜日。

昨年、枝の主日で祝福して頂いたソテツ(当教会ではソテツを使っています)の枝を焼いた灰を、竹内神父さまが信徒ひとりひとりの頭に撒いて祈って下さいました。

私たちは土から創られた神さまの作品です。そして、与えられたこの世界での役割を終えると、また土に還っていく定めです(創世記3章19節)。
この限りある身体、罪ある身体が灰を受けることで、イエスさまの復活に与ることができる、そう願い祈って私たちは灰を受けることになります。

そして、この灰の水曜日が過ぎると、いよいよ四旬節に入ります。

イエスさまが公に宣教を始められる前、荒野で断食をし、祈り、悪魔と闘い勝利をおさめられた40日。私たちも主の闘いと祈りの日々にあやかって、回心と償いの時をこの日から過ごすことになります。身が引き締まる思いがしますよね。

 



2025年2月23日日曜日

竹内神父さまの、司祭叙階25周年のお祝い日であった今日、熊本から、シスタービッチャン引率のもと、ベトナムの若者たち数十人が本渡教会を訪問してくださり、共にミサに与りました。

 


小さな教会、高齢化の波に翻弄されている教会ですが、この日は若いエネルギーに圧倒されました。

声を合わせて歌われるベトナム語の聖歌。ロザリオの祈り、奉納と拝領の歌。そして聖書。目頭が熱くなりました。

 

 

 

長崎大司教区の中村倫明大司教さまのあたたかい祝賀メッセージが読まれ、そして、福岡教区のアベイヤ司教さまのすっきりさわやかな動画メッセージが紹介され、拍手喝采。

最後に、地元の信徒さん、来訪して下さったベトナムの若い信徒さんたちも揃って、竹内神父さまに「おめでとうございます!」を唱和いたしました。

 



若い神父さまが赴任してくださり、そして若々しい信徒さんたちであふれかえった教会。まさに「あなた方の教会はもうすぐこうなるよ」というイエスさまのお声、希望のビジョンを見せられているようで、「Spes non confundit(希望は欺かない)」。この言葉を地でいく感動の一日となりました。

 

中村大司教さま、アベイヤ司教さま、竹内神父さまと私たち天草三教会を祝福して下さり、また、お祈り下さり、ありがとうございました。信徒一同、こころから感謝申し上げます。

 

2025年1月19日

堅信式と結婚式。

竹内神父さまはフィリピンへの出張でお留守でしたが、代務で来て下さった渡辺神父さまの司式で、信徒さんの堅信式と結婚式が執り行われました。

父・子・聖霊のあたたかい祝福と、参列して下さった信徒皆さんの愛に包まれて、幸せな式次第となりました。

ミサの後には、おふたりのために茶話会も用意されました。

おふたりの行く道に幸あれ、祈り続けた1日でした。

 

 

 

 

 

2025年1 月5 日

主の公現(祭)。

今日は「主の公現」日、別名「東方三賢者の日」とされています。

三博士は「黄金」「乳香」「没薬」をお生まれになったイエスさまにお捧げしています。黄金は現世の王、乳香は神、没薬は救世主を表わしています。すべからく、世界の全てをイエスさまに捧げた。その象徴としての描写である、というのが一般的な説明です。

それはさておき、竹内神父さまの今日のお話は「四人めの賢者」の内容が中心でした。 


ヘンリー・ヴァン・ダイク原作の「四人目の賢者」というお話しは、トム・フォンタナの脚本で映画にもなっています。   

当サイト管理人の私と、私の相方は、毎年この時期になると「四人めの賢者」の映画を観ながら滂沱して泣いています。


新約聖書マタイの福音書第2章に、こんな逸話が記述されています。時はヘロデ王の時代。ベツレヘムの馬小屋でお生まれになった救い主を礼拝するために、はるか東方から三人の博士がやってくる……。

映画では、彼らにはもうひとり、アルタバンという仲間が、つまり四人目の博士(賢者)がいた、という設定になっています。

ペルシャの祭司長の息子で医師でもあったアルタバンは、富も地位も名声もほしいままでした。しかし、愛する妻と子供を火事で亡くし、人生の真の意味について深く考えるようになります。

彼は、「いまに甘んじ、なにもせずにいるより、たとえ幻でも追うがよい」という父アブガルスに励まされ、全財産を売り払い、召使いのオロンテスとともに三人の博士を追いかけ旅に出るのです。が、道行くごとにアルタバンには災いが降りかかってきます。

瀕死の老人を助け、殺されそうになっている母子を救い、病み、傷つき、住む家もなく、飢えに苦しむ人々の手当てをしながら、自らも浮浪者の仲間となってともに苦しみ、喜び、嘆き、怒り、はいつくばって日々を送る。そうして1年が2年に、5年が10年になり、とうとう30年が過ぎてしまいました。

召使いオロンテスは呟いて言うのです。
「私の主人は、自分が救うべきひとはたくさん見つけた。しかし、自分を救ってくださるお方にはとうとう出会えなかった」 

病み老いたアルタバンには死が間近に迫っていました。

そうしたある日、ナザレのイエスというお方がいわれのない罪で捕らえられ、十字架に磔になるのだという噂を耳にします。

アルタバンは病の身をおしてゴルゴダの丘を登ります。
 
ところが、ここでまた知り合いの娘が借金の形に売られていく場面に遭遇してしまうのです。

もう少し登れば救い主に会える! 

ですがアルタバンは、救い主イエスのために肌身離さず携えてきた真珠を、最後の持ち物であった真珠を、娘を助けるために差し出してしまうのです。

死の間際、アルタバンはイエスに許しを請うて祈ります。

「私はあなたに捧げ物をするために今日まで生きてきました。ですが、もうなにも残っていません。どうか赦してください」

すると声が聞こえてきました。

「あなたの捧げ物はすべて受け取っています。あなたはわたしが飢えていたときに食べさせてくれました。渇いていた時に飲ませてくれ、裸の時に着物を着せ、家に入れてくれました」

「おっしゃっている意味が分かりません」

「貧しい者、病んでいる者、虐げられた弱い者たちのためにあなたがしたことは、すべてわたしにしてくれたことなのです」

その言葉によって、アルタバンはやっと救い主に巡り会えたと確信し、生涯の旅を終えるのでした。

善きサマリア人の教えは身近なひとばかりではなく、見ず知らずの人、通りすがりの全くの他人にまで愛を示せと語っています。

この物語はその内容をわかりやすく説明し、アルタバンの生き方こそがキリスト教の、イエスさまの教えの核心だと説いています。もちろん、だれもがアルタバンのような人物になれるわけではありません。物語はあくまでも物語。理想論でしかありません。

ただ、見ず知らずの人や通りすがりの全くの他人はともかく、キリスト者である以上、せめて教会員同士だけでも愛し合い、支え合い、助け合い励まし合い、祈り合う。そんな関係でありたい。できないなりの努力はしなければならないと思うのです。

私たちはみな、主イエスの、父と子と聖霊の名の下に集められ、マリアさまのご加護によって生きる家族なのですから。


竹内神父さまのお話を聴きながら、私の相方はポロポロと涙を流しておりました。


 

2025年1 月1 日

元旦ミサ

今日から始まる新しい年が、生きとし活けるひと、すべてに、幸多い希望に満ちた時間・日々でありますように。

 

 

2024年12 月25

主の降誕祭(クリスマス)ミサ。

平日水曜日の午前10時からでしたので、出席者も少ないだろうと思っていましたが、懐かしいひとたちがたくさん参列して下さり、厳かな中にも賑やかなミサになりました。

 

 

みこころ幼稚園の園児さんたちが一番前でミサに与って下さり、竹内神父さまと丁々発止のやりとりをして会堂を笑いの渦に巻き込んで下さいました。

子供たちも大人たちもとても楽しいクリスマスになったと思います。が、一番楽しんでおられたのは、案外、竹内神父さまではなかったか、と皆さんが笑いながら話しておられました。

さて、今年の主日ミサもあと一回、聖家族の祝日だけとなりました。ミサに与った子供たちも、信徒さんたちも、園の先生方も、そして地域の皆さんも、ひいては日本、世界の人々が希望に満ちた新年を迎えられますように祈っております


2024年11月24日

カトリック崎津教会献堂90周年記念ミサ

1934年、鉄川与助の設計に基づきカトリック崎津教会が建立されました。当初は全館コンクリート造りの予定だったものが、建築費用の不足によって、半分がコンクリート、半分が木造という特殊な教会建築になりました。

ミサの中で、竹内英次神父さまから「此までの司祭や信徒たちの苦労を偲び、彼らの信仰を受け継ぎ、さらによりよい未来を、イエス・キリストへの信仰によって創り上げていきましょう」とのお言葉がありました。

確かに、当時のハルブ神父さまと信徒さんたち、地域の皆様の浄財があって現在の教会堂が建ったのです。それから90年もの時間が経過した今日、こうして献堂記念を祝うことができました。すべての事実について、今を生きる私たちは神さまにもっと感謝しなければならない。そうこころを新たにした一日でした。 (写真は 崎津教会のページ をご覧下さい)。

ミサの後は、信徒会館と周囲のスペースを使って祝賀懇親会が開催され、地元でとれた魚介類やオードブルを堪能しながら昔話に花が咲きました。

※本渡教会からは、信徒16名が参列いたしました。

2024年11月10日

根引きの子部屋追悼ミサが大江教会で捧げられました。
このミサは、天気が良ければ根引き山の頂上で捧げられるのですが、あいにくの雨で、大江教会内でのミサとなりました。
司式は竹内英次主任司祭。崎津・大江・本渡のカトリック教会から数名ずつが参列いたしました。

 

以下は、根引き山が整備された頃に、このサイトの管理人がある新聞に寄稿したエッセイです。お読み頂ければ「根引きの子部屋」について多少なりともご理解いただけると思います。

ただ、なにぶん古いエッセイです。文中に、今現在にそぐわない表現が多々出現します。ご了承下さい。ここで、訂正しておきます。

※隠れキリシタンと潜伏キリシタンが一緒くたになっている。

潜伏キリシタンは、1614年に江戸幕府が「キリスト教禁教令」を全国に発布してからもひそかにキリスト教を信仰した人々のこと。

隠れキリシタンは、1873年に禁教の高札が撤廃されキリスト教が解禁されるようになったあとも、カトリック教会に戻ることなく、独自の信仰を続けたひとたち。一種のアニミズムである。

※荒れた根引きの子部屋跡を整備し始めたのは、ダイヤモンド神父である。写真左のマリア像はダイヤモンド神父が安置したものである。


※平成の市町村合併によって市や町の名前が変わっている。本渡市→天草市。河浦町→天草市河浦町。天草町→天草市天草町。

※登山ルートが災害のために工事中で通行出来なくなっている。迂回ルートは軽自動車がかろうじて通れる細い林道である。現地をよく知るひとに案内してもらわなければ分かりにくい。

※エッセイに登場する神父さま方は皆故人である。

以上のことを踏まえ、お読みください。

 

 根引き山のアリア

一週間に二度、数時間もかけて細く険しい山道を登る男の姿があった。夏は汗にまみれ、蚊や虻や蜂、まむしに襲われながら。冬は雪が舞い、凍てつくような木枯らしの中を、彼はただ黙々と山に登った。神が、あの子供たちを養えとおっしゃたのだ。男の思いの中にあったのは、自らが仕える神の心にひたすらかなうようにということだけだった。

くしくも、隠れキリシタン歴代水方(指導者)の中でも、まれにみる人格者とたたえられた大崎龍造の手にあった山。男の祈りと足取りにも自然と力が入る。だが、見栄や虚栄やてらいなどはどこにもなく、その労苦への力を男は一切惜しまなかった。男の名は、天草西海岸に赴任したフランス人フェリエ神父。明治16年のことである。

明治の初期といえば、まだ至る所に隠れキリシタンの名残があり、遠い天草・島原の乱を引きずるようにしてやせた土地を耕していた時代である。貧しさゆえに捨て子も多く、また諸々の理由で孤児となった子供たちは村々にあふれていた。病み衰え幼いまま死んでいく子供たちや、世を恨み、悪に走る少年たち、彼らの姿は神の救いからはあまりにも遠いものであった。

フェリエ神父は神に祈った。「主よどうかこの子供たちを養いたまえ」。しかし神は黙していた。神父は何度も神に祈り、この地域の窮状を訴えた。そうしたある日、神は神父に応えて言った。「おまえが養いなさい」と。託児所孤児院「根引きの子部屋」の起こりである。

この経緯の細かい部分は私の想像であるが、実際の施設運営の日々が神父にとって闘いの連続だったことだけは間違いないようである。今でさえとんでもない山奥だと感じるところに神父は井戸を掘り、小屋を建て、孤児たちを集め、教育と医療を施し、養子斡旋から子供たちの就職活動まで奔走した。また、障害を持った子供たちに対しては、神が彼らの命を天に召されるまで辛抱強く世話をした。

明治の児童福祉は、堕胎や圧殺、捨て子などがあまりにも多いことからやむなく生起してきたものであった。その中でも、もっとも有名な施設が、明治26年に石井十次が設立した岡山孤児院である。彼は、人格の自発的開発による尊厳性を重んじ「自然教育、人格教育、農業教育と労作教育」を施設運営の柱においた。そのさらに前に、フェリエ神父はすでに同じ処遇を自らの孤児院で実践していた。

特徴的なことは、三歳までの育児については有償で麓の民家に委託し、養子の縁なき者のみを山の子部屋へと移したことであった。また、長崎の女部屋(修道院)から児童福祉に精通した修道女を呼び寄せ、責任者として任命し、いまでいう専任の保育士(保母)を常駐させてもいた。

その後、施設運営は後任のガルニエ神父に引き継がれ、明治40年まで続けられた。国の児童・障害児施策が多少なりとも充実してきたことや、根引きの子供たちがあらかた巣立っていったことも閉鎖の理由には違いないが、大きな理由は、やはりその運営が困難を極めたことにほかならない。

当時を偲ぶものとしては、古い十字架の墓碑と井戸だけしか残っていない。その一帯を、現在の崎津 ・大江教会の川添神父が中心となって整備することになった。作業には両教会の信徒さん方や、施設ゆかりの人たちも参加し、イエスの十字架への道行きが14カ所の石碑に刻まれ、頂上には木の十字架が安置された。

当時の小屋があったその真上に、「みみずの子いのちのほかになにもなし」という旬碑が建てられている。作者は俳号岳石。川添神父本人である。氏は,俳人加藤楸邨の愛弟子でもあり、その当時の子供たちの心境をこの旬に込めたのだという。

旬碑の横には、天草町に保存されていた当持の施設の木材から梁2本と囲炉裏の囲いを譲りうけ、小さな休憩所も建てられた。これらはすべて川添氏が寄付を募り奔走した結果によるものであるが、なによりも、「私は、根引き出身です」、あるいは「根引き出身者の子孫です」と胸を張って堂々と宣言できる誇り高いひとたちの祈り心のたまもの ですと川添氏はいう。

天草は、その中でも特に河浦町は、「南蛮キリシタン文化」の発祥の地である。ところが、「根引きの子部屋」のような地味な施設跡は、地元の人でさえ忘れているというのが現状である。ぜひ一度、現地に登ってみていただけないだろうか。神の導きと祝福のアリアが時代を超えて響き渡るような心持ちになれること請け合いである。

現在の河浦町今富矢筈岳。通称根引き山。ルートは、天草町椿公園入り口から本渡市に抜ける林道を登るのが一番わかりやすいかと思う。

小規模だが日本でも希有な福祉と教育を実践した施設が、あの岡山孤児院よりも前に、へんぴな天草の、そのまた奥深い山の中に存在していた事実を、ひとりでも多くの人に知っていただければ幸いである。

 

2024年11月3日

八代殉教祭記念ミサ

午後2時から、八代キリシタン殉教者列福記念公園で記念ミサが捧げられました。福岡教区のアベイヤ司教さまをはじめ、たくさんの神父さまや信徒たちが九州各地から参列しました。天草からは、竹内神父さまと四人の信徒が参列しました。

1603年から1609年にかけて、現在の熊本県八代で激しいキリシタン迫害がなされ、11名が殉教しました。その中には斬首と磔刑になった6歳と8歳の子供も含まれています。

アペイヤ司教さまと八代教会オカロール主任司祭のお言葉に加え、地元信徒さんの殉教者紹介によって、人間の愚かさと哀しさ、他者を愛することの難しさ、それゆえに主イエスの尊い十字架の贖いと救いを、参列した一同、深慮させられ祈らされました。

世界が平和でありますように。


 

 

 

 

当本渡教会信徒の松永公雄さんが「天草キリシタン物語」を出版されました。Amazonで購入できます。ぜひ手に取ってお読みください。潜伏キリシタンたちの思いが、天草が、そしてイエス・キリストという救い主の存在がより身近に感じられることだと思います。

編著・松永公雄 出版・株式会社PUBFUN
価格・1320円(本体1200円+税)

以下は、巻末に記されている「あとがき」です。

私がルイス・フロイスの「日本史」を読んだのは70才を過ぎてからのことです。こんなことが書いてあるのかと驚きました。この本が世に出たのが1977年。それまで誰ひとりフロイスが書いた日本のキリシタンについての歴史書を知ることがなかった。天草についてこんなことが書いてあるとは大きな驚きでした。これを天草の人に知って頂きたいと言う思いからFacebook に投稿し始めた。此を読んでくれた友達から是非本にしろと勧められ、ついついその気になって現在に至りました。

フロイスはザビエルの来日の1549年から河内浦のコレジオが出来た1592年ころまでの期間の日本のキリシタンについて書いています。この日本史はまさに歴史書であり、その地で起こった出来事を詳しく述べています。その後、家康の禁教令が1614年発令され、禁教の嵐の後、1637年、天草島原の乱がおこりました。地方での一撲とはいえ江戸時代最大の事件でした。

天草島原の乱については膨大な一次資料が残されており、これらを基にして戸田敏夫氏が書かれた「天草・島原の乱(細川藩資料による)」を読みました。本当によく書かれた歴史書です。その他、天草の歴史家鶴田倉造先生の「天草島原の乱とその前後」、鶴田文史先生の「天草の歴史」に限りなく教えて戴きました。

これらの学術書から学ぶことにより私は「天草キリシタン物語」という論文を書き上げたと言う気持ちでいっぱいです。この4人の先生方に心より感謝致します。今この論文を書き終えて「天草」というところの素晴らしさを噛みしめているところです。

私の論文には四人の先生方の記述を数多く引用させていただきました。しかしただーつだけ説明のつかない人物がいました。それが天童天草四郎時貞です。その大きな空洞をうまく埋めてくれた人物に気がつきました。それが小西マンショです。その他、聖書からの引用が多くなりました。これはキリシタンの物語なのだから仕方のないことです。イエス・キリストの真実の言葉を味わっていただければ幸いです。(松永公雄)